囚人のジレンマと量子的戦略と日本人の間の文化
皆様、お元気でしょうか。元気ではない?
なるほど。
お元気そうで何よりです(静かなる大衆の声は聞こえませんねぇ)
今回の話題は、囚人のジレンマです。
ご存じない?
ご存知ですよね。
ざっくり言うと、…いや、wikiから引用します
囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英: prisoners' dilemma)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ。 お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである。
こういうことです。
さて、今回この記事でこれと結びつけて考えるもう一つが、「間」というやつです。
間が悪い、間柄、間延びする
そんな使い方がありますね。
要するに「間」というやつは人間関係の中に存在する余白のようなものであります。
「間」をうまく操れるものこそが、人間関係を制するといっていいでしょう。(日本においては)
最近、日本人の使う日本語が乱れているという話をよく耳にします。日本人の語彙が貧困になっているということは、実感する限り事実であります。
自分自身は、”やばい”とかいう万能の言葉を使うことは控えているのですが。理由としましては単に、自身の伝えたいことが伝わらないからです。
例として食事の時のことを挙げますと、この”やばい”という語は、味が濃すぎる、薄すぎる、美味しい、不味い、豪勢である、熱い…他、多くの形容を指し示せるポテンシャルを持っているのです。
一方でそのポテンシャルが、伝えるべき部分がどこで有るのかを正確に双方が把握するのを困難にしているというわけです。
そのデメリットを有しているこの語の扱いには、私はなかなか慣れることができないのであります。
しかしながら、別に現代人が抽象的な言語を用いて会話における必要語彙の圧縮を図っていることを批判するのには、これまた注意が必要でしょう。
すみません
この語の扱いには多種多様な場面が想定されますが、これを語彙の貧困の一因だと指摘する人は聞いたことがありません。
そもそも、
かの徒然草にさえこんな文章が。「最近の若者は~」という話です
徒然草116段
寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、
昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。
この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。
人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。
ざっくり言うと、
最近の若者は何にだって偉そうな字を使って大層な名前をつけやがる。我々の頃はもっとそのままな感じで適当な名前をつけたものだ。訳の分からない珍しくて読みにくい字を使うなんてことをしても、そんなことをするのは馬鹿のすることじゃわい。読みにくくって仕方がないし、いいことなんてないじゃあないか。
みたいな感じです。
これ以上言っても特に益はないので、詳しく知りたい人向けにリンクを乗っけておくこととします。
相手に解釈の余地を残すように話しかけるのが日本流なんでしょう。
それは、昔から日本人の考え方の根底に流れているんじゃないかな。
日本人は、仲のいい人とは親しくしますが、そうでない人とは距離を置く傾向が強いのだそうで。
要するに、日本人はなかなか態度を決めないわけである。
海外では「日本人はYESやNOということができない優柔不断な民族なのか」と揶揄されたり。
しかしこれを、量子的戦略だと解釈したらいかがでしょう。
人が、相手の態度を伺って、それまで自身の態度には柔軟さを持たせて保留しながら会話すると、その会話の仕方は、全体の利益として帰ってくるんじゃあなかろうか。
まぁ、結局言いたかったのは、こういう話です。